主人公はニートで兄や父親をアテにしている。
アテにできるほどお金がある。
兄は実業家。親切でどこも悪くない人間なのだと思う。
しかしこの兄の存在に
どうしようもない
動かしがたい大きな力を感じる
避けようにも避けられない力の存在として見えてくる
兄は社交界にも忙しい
情報通で、新聞のネタを次から次へと話題にし
相手を飽きさせることがない。
そんな兄も抜けているところがあるのか?
それとも弟(主人公)を信用しているのか
あれこれ新聞のネタを話したあとで
「時にトルストイという人はもう死んだのかね。」
と聞くシーンがある。
情報通の兄といえど、知らない事もあるよね、と思わせる一方で
文間の空気が、なんかおかしい。
ただ「物知りの兄は文学には疎い」ことを言っているのではないんだなと思い、そしてこの本のあとにもさきにもトルストイのことはこれ一度きりであった。
読み終えて調べると
この本を書いた時点でトルストイはまだ存命であった。
主人公はそれを知っている様子。それなら
「存命だよ」と答えてあげればいいものを言わないでいる。
うっすらと漂う失望。
この話の時代背景である日露戦争のとき
トルストイは日本とロシア両国に「戦争するな。内政問題に集中せよ!」とののしっていた。
日本でもその発言が三度新聞に取り上げられている。
明治37年8月「戦争を論じ、日露両国を罵る」同年9月「戦争反対論を秘かにロシア国内に配布」
明治39年「露国の禍根は農民問題、高石特派員に語る」
こういう発言は圧力に苦しめられる。
言論統制が吹き荒れて場合によっては死刑
そこに兄の
「で、トルストイは死んだのかね?」
という、さらりとした問いかけに
とてつもなく大きな、避けがたい力のようなものを感じてしまう。
兄の話すこと
それは新聞の受け売り
今も同じような構造があるように思う。
参考文献
明治ニュース事典